LOGIN* * *
徹夜で論文を書いていて判断力が鈍っていた自分にも非がある。 あのとき小手毬に手をひっぱられていなかったら、小手毬に庇われていなかったら、優璃の車にはね飛ばされていたのは小手毬ではなく、自由だったかもしれない。 毎日、毎日、病室に通う。 毎日、毎日、人工呼吸器に繋がれた少女の寝顔を見る。 毎日、毎日、毎日、毎日。 「あれ、君……」 どのくらい、毎日が続いただろう。 ぼんやり、病棟に続く廊下を歩いているときに、呼び止められた。 白衣の胸ポケットに「医師
どこかで見たような顔だと思ったが、毎日のように病院に通っているのだから見たことがあるのは当然かと考え直す。自由は院内でも有名人になっている。眠り姫に会いにくる王子様として。
……ただし、目覚めさせることのできない王子様だけどな。 「たしか、亜桜さんの」 みなまで言わさず、自由は遮るように挨拶する。自由は小手毬の兄ではない。それなのに誰もがふたりを兄妹だと認識する。あくまで自由は小手毬にとって兄みたいなもの、である。 自由は小手毬を妹以上の大切なひとだと思っているが。 「お世話になってます」 「また来たのか」 呆れたように言われ、ムッとする。 事故から半年が過ぎようとしていた。小手毬は植物人間として障害者認定を受けた。自慢だったふわふわのロングヘアも今ではベリーショートに切り揃えられている。 点滴と酸素吸入だけが彼女を生かしている。 状況は絶望的だった。 職場復帰を果たした優璃の見舞いは月に一回のものへ変わっていた。相変わらず季節の花を絶やすことなく飾ってくれる彼女は、病院関係者から「オソザキ」と呼ばれるようになった。自分は遅咲きの花だからと笑いながら、眠りつづける小手毬に花を届ける優しい加害者。病室の花瓶には今、大輪の向日葵が生けられている。 それでも自由は毎日小手毬を見舞っていた。 大学は夏休みに入っていたから、単位に悩まされることもなかった。 それに、いつだって自由は小手毬に会いたい。たとえ眠りつづけている姿でも。 「面会時間内に行くのは、自由ですから」 言い返す。すると、憐れむような表情を向けられる。 「いつ目覚めるかもわからないのに?」 ……コイツ、喧嘩売ってるのか? 「いつ目覚めるかもしれないから、会いに行くんです」 怒りの声に震える自由を、陸奥は面白そうに見つめている。 「千五百分の六」「……は」
「交通事故で植物人間になった患者が意識を取り戻す確率。要するに二百五十人に一人しか助からない」 ごくり。唾を飲み込む音が響く。 尚も陸奥は続ける。 「俺が言いたいのは、奇跡に縋ることしかできない王子なんか邪魔なだけだってこと」 「なっ……」 絶句する。 ……お前それでも医者か? そう叫びたくても、病院の廊下で叫べるわけもない。 憤怒の形相で相手を睨みつけることしかできない。「苛々するんだよ。見ていると。最初のうちは微笑ましいと思ったけど、今じゃ惨めでしかないぜ? 時間の無駄としか思えない。そんなに自分苛めて楽しいか?」
陸奥は怯むことなく、攻撃する。
「あんまり、自分を責めるな」
「……あんたなんかに、言われたくない」 振り絞ったような声を、陸奥はしっかり耳にする。 「そうだな」 「え」 さっきとはうってかわって、柔らかな優しい声音が自由に降り注ぐ。 「偉そうなこと言える立場じゃないもんな、それは自分自身に対してなのか、自由に対してなのか、不透明な発言。
「早ければ三ヶ月でいけると思ったけど、見くびったな……一年、いや二年くらいインターバル必要だな」独り言なのか、自由に対して言っているのか、陸奥は一瞬だけ翳りのある表情を見せる。
だがそれも、すぐに消え、意地悪そうな微笑に戻る。「諦めるなよ、俺は諦めない」
そう言って、満足そうに彼は歩き出す。早足で廊下を渡る彼の大きな背中を、自由は呆然と見送ることしかできない。
……どういう、ことだ? 彼は眠りつづける小手毬のことをどう思っているのだろう? 厄介なお荷物? それとも……励ましてるんだか貶しているんだかわからない彼からの言葉は、自由を深く悩ませる。 『俺は諦めない』 あの医師は、小手毬の主治医ではないはずだ。だとしたら、あいつは小手毬の何なんだ? 悶々とした気持ちのまま、今日も自由は小手毬の眠る病室へ、赴く。* * * チョコレートコスモス。 名前の由来どおり、チョコレートの香りのする、焦げ茶色の花。 眠りつづける小手毬の周囲には、初冬だというのに、相変わらず花に見守られている。 花瓶の水を入れ替えて、優璃はチョコレートコスモスを生けていく。ふんわりと甘く、ほろ苦いガトーショコラのような香りが鼻孔をくすぐる。 飾り棚に花を置いて、優璃は眠りつづける少女をじっと見つめる。 自分が傷つけてしまった少女。自分が時間を止めてしまった少女。 せめて見ている夢が素敵なものであればと、彼女は見舞いに行く都度、花を贈る。きつい匂いのものや、縁起の悪い花は避けて、誰からも好かれるようなパステルカラーの小花を添えて、四季折々の花を贈る。今日はさし色が焦げ茶のチョコレートコスモスなので、いつもより大人びたアレンジになった。周囲には儚げなベージュに近い白のカスミソウが散らされている。 「今日も綺麗ですね」 優璃が顔を向けると、少女の主治医である早咲俊彦が開けっ放しの扉から、顔をのぞかせていた。四十代前半の彼は、優秀な脳神経外科医として病院内外からも評価されているという。 彼が小手毬の手術を執刀したから、彼女は今も生きているのだという噂すら聞く。だから優璃は彼と顔を合わせるたび、救われた気分になる。「こんにちは」 「こんにちは、オソザキさん。いつもありがとう」 そして早咲も、彼女が少女に送る花に癒される。「わたしにできるのは、これくらいしかないですから……」 しどろもどろになる優璃を、早咲は優しく諭す。「あなたは、よくやってくれています。むしろ、自分を責めすぎているようなきらいがあります」 「でも」 自分がしっかりしていれば、事故は起こらなかったはずだ。 車道と歩道の境界がほとんどない道路で起きた事故は、どちらにも責任があったということで落ち着いた。被害者の両親から訴えられ、刑事告発されることもなかった。優璃は免停処分になり、罰金を払うことで釈放された。被害者には多大な額の賠償金を支払い、誠意を持って尽くしていたからか、トラブルになることもなく和解が成立した。 呆気なく、もうすぐ事故から一年が経過する。 自分は少女の人生を壊してしまっただけの罪を犯したのに、ほんとうにこれでいいのだろうかと優璃は常に焦燥感にかられている。
* * * 「ジユウだろ?」 そして冬のはじまり。いつものように、面会終了時間まで小手毬の穏やかな寝顔を見つめていた自由は、呼び止められて首を傾げる。 自由をジユウと呼ぶ、懐かしい女性はひとりしかいない。「……赤根先輩」 「お久しぶり。やっぱり君だったんだ、少女の騎士は」 小手毬のことを言っているのだろう。そういえば彼女は幼い頃の小手毬と面識があったはずだ。小手毬は覚えていないだろうけど。「ドイツから戻られていたんですね」 自由とさほど変わらない女性にしては高い背丈、身につけているのはオレンジに近いピンク色の白衣、そして髪型はボーイッシュなショートカット。彼女の外見は、大学時代と変わっていない……白衣を慣れたように着ているのを除いて。「まぁな。ところでジユウ、気づいてないのか?」 「はい?」 「結婚したから苗字変わったんだよ。アカネからナラシノに」 そう言って、胸ポケットにつけている名札を見せる。確かに、「医師 楢篠」と記されている。「け、結婚……?」 冷静に応えると、楢篠はぷぃと顔を背ける。どうやら怒らせてしまったようだ。「言葉のあやよ。揚げ足とるんじゃないの」 「……はい」 しょんぼりしてしまった自由を宥めるように四つ年上の先輩は呟く。「まったく。君は変わらないね」 「そうですか?」 カツン、カツンとリノリウムの床にふたりぶんの足音が響く。窓の向こうは橙色に染まり、西の空は真っ赤に燃え上がっている。まるで火事のように。アスファルトの上に流れた小手毬の血のように……「少しはいい男になってるかと思ったけど、全然駄目だ」 「厳しいですね」 それでも楢篠は糾弾をやめない。苦笑を漏らす自由に、打ちのめすような言葉を返す。「いつまで彼女に拘る? あの女の子がジユウにとって大切だってのはわかっているが、個人的な感情で物事を左右しつづける生活を送りつづけていたら」 真顔になって、続ける。「近い将来、破滅するぞ」 楢篠の警告を、自由はさらりと受け流す。「知ってます。でも、今だけですから」 植物人間の小手毬の傍にいられるのは、今しかないと、自由は力説する。「あと半年も猶予はないけどな。それでもいいなら好きにしな」 楢篠はそう言って、連絡口から外へ出て行く。それ以上、聞いてくることはな
* * * 徹夜で論文を書いていて判断力が鈍っていた自分にも非がある。 あのとき小手毬に手をひっぱられていなかったら、小手毬に庇われていなかったら、優璃の車にはね飛ばされていたのは小手毬ではなく、自由だったかもしれない。 毎日、毎日、病室に通う。 毎日、毎日、人工呼吸器に繋がれた少女の寝顔を見る。 毎日、毎日、毎日、毎日。「あれ、君……」 どのくらい、毎日が続いただろう。 ぼんやり、病棟に続く廊下を歩いているときに、呼び止められた。 白衣の胸ポケットに「医師 陸奥」と書かれた名札がついている。 ムツと読む人間が多いからか、ミチノクとフリガナがついている。 見たところ、自由より少し年上の、二十代後半から三十代前半のようだ。医師としては若手に入るのだろう。整った顔立ちに、しわひとつない白衣がさまになっている。 どこかで見たような顔だと思ったが、毎日のように病院に通っているのだから見たことがあるのは当然かと考え直す。自由は院内でも有名人になっている。眠り姫に会いにくる王子様として。 ……ただし、目覚めさせることのできない王子様だけどな。「たしか、亜桜さんの」 みなまで言わさず、自由は遮るように挨拶する。自由は小手毬の兄ではない。それなのに誰もがふたりを兄妹だと認識する。あくまで自由は小手毬にとって兄みたいなもの、である。 自由は小手毬を妹以上の大切なひとだと思っているが。「お世話になってます」「また来たのか」 呆れたように言われ、ムッとする。 事故から半年が過ぎようとしていた。小手毬は植物人間として障害者認定を受けた。自慢だったふわふわのロングヘアも今ではベリーショートに切り揃えられている。 点滴と酸素吸入だけが彼女を生かしている。 状況は絶望的だった。 職場復帰を果たした優璃の見舞いは月に一回のものへ変わっていた。相変わらず季節の花を絶やすことなく飾ってくれる彼女は、病院関係者から「オソザキ」と呼ばれるようになった。自分は遅咲きの花だからと笑いながら、眠りつづける小手毬に花を届ける優しい加害者。病室の花瓶には今、大輪の向日葵が生けられている。 それでも自由は毎日小手毬を見舞っていた。 大学は夏休みに入っていたから、単位に悩まされることもなかった。 それに、いつだって自由は小手毬に会いたい。たとえ眠
* * * 小手毬の昏睡状態は続いている。「人形みたいな女の子ね」 毎日、花束を持って病室に見舞いにくる女性を、自由は無表情で見つめつづけた。 最初のうちは言葉を交わすのも嫌だった。 あまりに子どもじみているとは思う、だが自由は彼女を許すことができずにいる。剥き出しの憎悪を吐き出して更に惨めになるよりは、自分の殻に閉じこもって外部からの接触を遮断した方が無難だと、そう考えたから無視していた。 だが、時間の経過とともに、自由も冷静になった。 いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。彼女が目覚めることを信じて、優しく見守りたいと、そう思ったから。 加害者を許すことはできない。それでも、無言の逢瀬を二ヶ月ほど続けたある日、会話をするようになった。 小手毬も、彼女を責めるようなことを望んではいないだろう。彼女はそういう子だ。 「授業はよろしいの?」 「夕方になったら戻りますよ」 自由は共働きの小手毬の両親に代わって、大学の授業の合間にちょくちょく小手毬を見舞っていた。幸運にも、そういうことができる環境だった。それに、経験が浅い彼は彼女のためにできることが、なかった。見舞うことしかできなかった。 彼が「亜桜小手毬」と記された個室に行くと、高い確率で、彼女と会う……小手毬をはねた事故の加害者と。 加害者である女性は坂猪優璃と名乗った。 事故の責任は自分にあると、誠意を込めて小手毬を見舞っていた。加入していた自動車保険だけでは償いきれないと、若い頃から貯めていた結婚資金をすべて、小手毬の治療費に捻出してくれた。個室を準備してくれたのも彼女だ。 病室には毎日、異なる花が飾られる。赤と白の絞り模様がのぞく八重のカーネーションに、赤、白、黄、緑、紫、桃、橙色と、グラデーションが豊かな七色のチューリップ、気高い女王のように凛と佇むオールドローズに鮮やかな色彩を抱くリガールリリィ……自由の知らない花もたくさんあった。 冬だというのに、彩り豊かな花々が、眠りつづける小手毬を包み込む。まるで病室自体がガラスの棺のようだと自由は苦笑する。それでも、無機質な病室に彼女をひとりきりにさせるよりはマシだと優璃は呟く。 「でも、あなたがいるから、淋しくはないのかもしれないわね」 交通事故の傷跡
* * * 「今、縁起でもないこと考えただろ?」 ミントグリーンの術着を着た若き医師は救急車から運び込まれた患者を一目見て、息を飲んだ周囲の人間を一蹴する。「匙投げるなよ!」 怒鳴りながら、手術室へ駆け込み、バタンと扉を閉める。ペールグリーンの術着を纏い、待機していた医師、早咲が彼を確認して頷く。無言で合図を出す。 パッと手術中のランプがあかく、点灯をはじめる。 陸奥は麻酔を施し、患者の状態を改めて見やる。そこで、救急隊員が諦めた表情をしていたことに理由がいった。 ……確かにこのままだと、十中八九、死ぬな。 運ばれてきた十六歳の少女は意識不明の重体だった。頭部を強く打ったらしく、外傷性くも膜下出血、脳挫傷、急性硬膜下血腫が認められる。頭蓋骨は折れていないようだが、危険な状態に変わりはない。MRIで脳の中心部である脳梁、中脳、大脳基底核各部に損傷が見られたことからも、意識障害が重篤であることが理解できる。手術後もこの状態が続くようならびまん性軸索損傷の診断もできそうだな、と陸奥は考える。 だが、彼女はまだ生きている。最善を尽くせ。無為に死なせたりするな。諦めたら終わりだ。 考えながらも動かす手は止まらない。眩しすぎる灯りの下、早咲が頭を開いていく。鉗子を操る彼の行為をひとつひとつ見やりながら、陸奥は次にすべきことを即座に組み立てていく。 一刻も早く開頭手術を行い、血腫を取り除かなければ彼女は助からない。ちいさな頭蓋は陥没こそしていないものの、傷だらけだ。損傷後の脳浮腫、挫傷性出血で脳内の圧力はかなり高い。腫れあがる脳を鎮めるため、脳圧を下げるべく薬を選択する。 血腫を取り除き、早咲は縫い合わせ作業に入る。ここまでくると、固唾を飲んで見守ることしかできない。 はじまりからおわりまでいつも以上に苦しい、はちきれそうな緊張感が続いていた。たいした時間ではないはずなのに、一日の半分以上を費やしてしまったような、そんな大手術だった。 やがて早咲が手を止める。 息を飲む。 手術室からストレッチャーに乗せられた少女が前を遮り、集中治療室へ移送されていく。 両目を充血させ、患者の無事を祈っていた家族の縋るような視線が早咲に向く。 「たったいま、娘さんの手術が終わったところです」 そして、早
無意識のうちに身体が動いていた。兄のように慕っていた彼から、目の前に迫り来る真っ赤な乗用車を斥けるために。 精一杯のちからで、彼を押しやった。「小手鞠!」 けれどもちいさな身体はあっけなくはね飛ばされて宙を舞う。濃紺のセーラー服を着た少女が頭から地面へ墜落していく。 目撃者の悲鳴と、ぐしゃりという不快な衝撃音。同時に黒板にフォークをつきたてて引っ掻いたときに鳴り響くような不協和音が世界を覆う。それが車のブレーキの音であることすら、自由には理解できなかった。 目の前の光景を嘘だと、夢だと思いたかった。 いつもふたりで通るアスファルトに血溜まり。胸元を飾っていた真っ白なリボンタイは禍々しいほどの臙脂へと色を変え、触れたらとけてしまいそうなふわふわの黒髪にはべったりと血が付着している。とくとくと流れ出る赤い液体をとめようと、彼ははね飛ばされた少女の前へ駆け込み、着ていたジャケットを脱いで止血を試みる。麻でできた萌黄色のジャケットはみるみるうちに赤黒く染まっていく。 無力だ。たとえ救命処置についての知識を知っていても実践できるわけではないと自由は思い知る。ぎりぎりと歯を食いしばる。悔しい。なぜ彼女がこんな目に合わなければならない? 少女の名を呼ぶ。小手毬、何度も何度も何度も呼びかけても、彼女は応えない。頭を強打したのか、ぴくりとも動かない。けれど、素人がむやみに動かすものではない。 目撃者が呼んだのだろう、遠くからサイレンの音が聞こえる。小手毬の前でしゃがみ込んで抜け殻のようになっていた自由は顔をあげ、死んだ魚のような瞳で、佇んでいた女性を見眇める。 真っ赤な車を運転していたのは、自由より少し年上の、二十代後半の女性のようだ。レースのシルクブラウスとグレーのタイトスカートを着た彼女は、会社帰りのОLに見えなくもないが、少し浮世離れした感じがある。 きれいな、ひとだ。 自分がしてしまったことにうろたえ、立ちすくんでいる。彼女は取り乱していた。少女をはねてしまった事実に打ちのめされていた。 自由はその様子を見て醒めてしまった。あなたが取り乱していても、小手毬が治るわけではない。彼女は現に、あなたにはねられてしまったのだから。 サイレンが間近まで迫り、静かになる。 救急車と、パトカーが現場に到着し、それぞれ救







